雨の日は千回のキスを

 彼がこんなに積極的だとは知らなかった。
 再会してから3ヶ月、宗介は一日に何度も唇を重ねてくる。まるで大型犬からじゃれられて日がな一日舐められているようだった。
  最初はややぎこちなかったそれは、いまではすっかり手慣れてしまって、少しかわいくない。
 もちろん厭なわけじゃない。最初こそかなめも恐る恐る応えていたが、異常な状態で離れていた期間が長かった分、正直嬉しいし、触れていたいと思う。だが、以前の朴訥ぶりを知っているかなめは戸惑うばかりだ。
 宗介の唇はいつも熱い。比較の対象を一人しか知らないのだが。
 あっちはとても冷たかったな。
 かなめは首をふる。きっと今日も雨が降っているから、いらないことを思い出すのだ。
 日本の雨は柔らかく窓をたたいている。ずっと激しいスコールばかり見てきたから、ひどく懐かしいような気がする。しかし、この風景もまたしばらくお別れになりそうだ。
 ━━━そうだ、あたしは千鳥かなめ。明日からの逃避のために荷物をまとめている。
 かなめの頭の中を狙っている国や組織はまだまだ多く、安穏とした生活はほど遠い。今までも宗介のセーフハウスを転々としており、すでに所持品は最小限しかない。
 心ここに非ずの体で床に座り込んでバッグにつめていると、急に腕を引き寄せられた。
 刹那、雨の記憶が蘇り体の芯が凍った。
「━━━やっ」
 思わず声がでて顔を手でかばう。そういう風にかなめが拒むのは初めてで、宗介は少し虚をつかれた顔で手をとめた。
 我に返ってあわててかなめは取り繕う。
「あっちがうの。……ちょっと、ビックリしただけ。……ごめん」
「謝る必要はない。急に驚かせた」
 宗介がそっと背中を撫でてくれるが、思い起こされた記憶に体が反応してしまう。
 身を固くしたかなめの頭を、宗介は優しく抱き寄せる。
「我慢しなくていいぞ」
「……ごめん」
「謝らなくていいといったぞ」
「うん」
 だが、宗介を傷けてしまったのではないかとかなめは怖くなる。いっそ、言ってしまった方がいいのだろうか。
 ━━余計に彼は苦しみはしないだろうか。彼女を守れなかったことに。
 しとしとと穏やかな雨の音と宗介の心臓の音だけが規則的に聞こえていた。
 世界で一番安心できる場所に包まれて、かなめは母親の胎内にいるような安らぎを覚えた。固くなった体がゆっくりと解されていく。
 優しい雨音に多分うっかり気が緩んだのだ。
「実はね、あたし……あんたが香港にいってたとき、レナードに」
 言葉が滑り落ちてて、かなめは慌てて口を手でふさいだ。
「そのことか。知っているぞ」
「……え?」
「レイスの報告書は全て読んだからな」
 その際、普段能面のようなから女スパイから「元はと言えばおまえのせいなのだから、この事でお前が千鳥かなめにつまらない嫉妬の八つ当たりなどを向けることがあれば殺す」と氷よりも冷たい瞳で釘を刺されたことまでは、神ならぬかなめは知らなかった。
 かなめがあの男のことが忘れられないのは何もその行為のせいだけではない。共振で触れた彼の過去は生々しすぎて今でも自身の体験かのように夢に出る。
 そして腕にかかる銃の重さを、トリガーの冷たさを腕が覚えている。あっけないほど乾いた音を耳が覚えている。自分が武器で人を傷つけた記憶を忘れられない。 
 なにより自分が自分に負けた屈辱を忘れられない。
 切なくなるほど虚無な灰色の瞳が脳裏にこびりついて亡霊のように訪れるのだ。
「順番など問題ないと思うが。それでいくと、おれはゲリラの老人ということになるが、別に気にしていない」
「あたりまえでしょ!」
「なぜだ。同じ行為ではないか」
「だから、人工呼吸とキスは違うって何回言ったらわかるのよ、このスカタン!」
 宗介の足の間にすっぽりと入っている体勢のせいで、ハリセンを出せないのが残念だ。
「わかっている。君と俺のこれは愛撫だ」
「あ、あいぶ……って」
 ストレートな言葉にかなめは頬が赤くなる。どこで覚えたのだ、そんな言葉。
 宗介はかなめを胸に抱え込んだまま、ふむと首を捻った。
「俺を君が受け入れる行為がキスなんだろう」
「う、うんまぁ」
「君はレナードをうけいれたのか?」
「……のわけないでしょ!張り倒すわよあんた」
「ならば問題ない。あの老人と同じ存在だ」
「……えっと」
 そこまでいうと見目はよかった彼が少し気の毒になる。
「だが、君が嫌がる好意を強制的に行ったという点は許しがたい。しかしあの老人も別に俺にキスされたかったわけではないからな」
「……、そ、そういうもん?」
「不満ならば稲葉でもいいが」
「そういうことあったわね……」
 瑞樹はあの出来事をその後全く話題にしなかった。彼女にとっては昇華できることだったのか、仲良くなったかなめに気をつかったのか。そのどちらもなのだろう。
「……だが、君が俺を望んだときにその場にいなかったのは、俺のミスだ」
 すまん、と謝らせてしまって、かなめは頭を振った。長い髪が降りてきて、彼女の顔を隠した。
 本当はわかっていた。多分、世間一般ではなんでもない事を気にしてしまうのは、後悔しているからだ。
 チャンスはあったのに。
 いたいけな寝顔と、ちらばった髪と。
 二人きりしかいない部屋で。
 あの時に勇気を出したなら、あの後おきた全ての出来事がもしかしたら何か変わっていたのではないかという、下らない未練だ。
 どんな結果も受け止めると自分で決めたのに。
「……誰にでも忘れたくても忘れがたい出来事はある。君が話したくないなら話さなくていい」
 それは彼自身にむけた言葉なのだろう。
 幼い頃見たおぼろげな夢のように、つかむと消えそうな想いだが、かなめの中に確かに溶けていた。
 ━━━今度はちゃんと彼を包み込んであげて。
 きっと、名前も顔も知らない彼女はとても優しい少女だったんだろう。何もかも失った宗介の一時の安らぎになったに違いない。
 その想い出は宗介の胸に深い傷として一生消えない。
 ━━━あたしたち傷だらけだね。
 でもあたしたちはお互いを選んだんだ。お互いしか選べなかった。それが例え間違っていても。

「千鳥……キスしていいか」
「もう、まだ聞くの?」
「何度でも」
 かなめは下から彼の顔を両手で挟んで覗きこんだ。
 この一年、かなめの精神は奥底まで蹂躙された。今の自分がソフィアなのか、過去を共有したレナードなのか境界があいまいになることがある。
 テッサが精神安定剤を処方してくれたが、かなめは飲んでいない。
 宗介に名前を呼ばれながら指と唇で輪郭をなぞられる度、自分を、千鳥かなめを取り戻していく。
 彼は非日常の代名詞だったのに、今はかなめを日常に留めておくために必要不可欠な存在になってしまった。
「じゃあ、あたしも何度でも言うわ。好きよ、ソースケ」
 軽く啄むようなキスは次第に深くなり、宗介はかなめの後頭部を引き寄せ何度も彼女を求めた。彼の熱が濁流のように押し寄せる。息継ぎも苦しくなって、たまらずかなめは身を離す。
 荒い息と乱れた裾を整えながら、軽く宗介をにらんだ。
「……あんなこといって、ほんとは妬いてるの?」
「してないぞ。君が何を思い出そうが自由だ。
 ……だが、俺と触れているときは俺の事を受け入れてほしいだけだ」
 かなめは他愛のないいたずらを見つけた時のように困った笑みを浮かべた。毎日繰り返される頻繁のキス。
 すっかり手慣れたのだと思っていたら、なんて不器用で乱暴なカウンセラー。
「あんたはどうなの?」
「……どういう意味だ」
「あたしのことだけ考えてるんでしょうね?」
 宗介は軽く片眉をあげた。
 答えは彼女を全て覆いつくすような深い口づけだった。