※  宗かなではないのでご注意ください。

Phantom Taste

 その区画に足を踏み入れると、馴染みのない臭いがまとわりついた。
 秋にあの小さな島国を訪れたときに初っぱなから不快になった臭いと同じだった。幼い頃オキナワに住んでいた頃には記憶にないのだが。
 臭いをたどるように彼は歩を進め、重いドアを開いたあと、ノックする。
 想像通りキッチンに立っている長い黒髪の後ろ姿は振り向かない。なにかを炒めているのか、耳障りな音と共に手がせわしなく動いていた。作っているものには興味も関心もなかった。
「やぁ、またここか、お姫様。今日はなにを作っているんだい?ソイソースの臭いがしている」
「・・・・・・隠し味ですこし使っただけよ。なにせ貴重品ですからね」
 棘のある皮肉混じりの声だ。
「君がキッチンを占領するから、すっかり野蛮な臭いが染み込んでしまったんだね。嘆かわしい」
「醤油をバカにするやつはあたしが許さないわよ」
 彼女は初めて振り向いた。手にはスパチュラを握っている。
「バカになんかしていないさ。正直に言っただけだ。」
「食べてから文句言いなさいよ」
 以前は無気力に料理をしていた彼女だが、最近はたまにこういう軽口を叩くようになった。あの男が生きていると知ったからか。
「遠慮しておくよ」
 彼女は顔をしかめる。
 いつもはあっそうと言うだけだったが、今日は違った。
「あんた、ご飯は食べてるの?」
 彼は軽く灰色の眉毛をあげて応えた。
「そりゃ、エネルギーをいれないと生物は死んでしまう」
「あんたたちっていつもそうね。食事をエネルギー補給としか思ってない。だから干し肉とかカロリーメイトとかばっかり食べてて平気なんだわ。そんなんだからまともな感情が育たなくて、ろくでもないことばかり考えるのよ」
 誰のことだとは聞かなかった。そんなもの聞かなくてもわかりきったことだったからだ。
「僕は干し肉は食べないなぁ」
「おんなじよ、どんな高級なものを食べていても美味しいとおもわないんだったら、5つ星だって干し肉だってただの栄養補給よ」
 珍しく突っかかってくると思ったら、目がうっすらと充血している。きっと想いを馳せていたのだ。だが、彼女はその名を決して口に出さない。だから、彼も気がつかない振りをした。
「うれしいな、僕を心配してくれてるんだ」
 彼は紳士的な速度で彼女との距離をつめた。彼女はわずかに怯み少しずつ後ずさっていく。
「・・・・・・寄らないで」
「なぜ?君はそんな言葉をいうはずがないだろう?」
 彼女は愛らしい唇を噛み締める。これから起こることから隠すように。
 彼は更に体を近づけた。男性にしては細身だが、華奢すぎる彼女を覆うのには充分だった。長い髪が備え付けの銀色に光るシンクにかかる。
 彼の端正な顔を映す大きな瞳は気丈に睨みつけているが、小さく震える肩が小鳥のようだ。容易く握りつぶすことができる。
 彼女の黒い前髪と、彼の灰色の髪の先が触れる。世界がモノクロームになって時が止まった。
 このまま唇を重ねても、彼女は逆らわないだろう。彼女は自分の言葉に責任を持つことができる稀有な人物なのだ。あとで一人で泣くとしても。
 本来なら手に握り締めているスパチュラ、鍋やナイフ、抵抗するための道具は山ほどあるのに、それすらできないとは。自分に誠実であろうということはなんと不自由なことなのだろう。もしくは後ろめたさか。どちらにしろ彼には全く理解できない心境だ。
 あとわずか数インチの距離を縮め、そのまま大理石の冷たい床に引き倒し彼女を引き裂いてみたい。さすがに激しく抵抗するだろう。住んでいた日常も、好きな男も、最後に残った誇り高い矜持でさえも蹂躙されてしまえばいい。そうして空っぽになった心に自分を聖痕のように刻み付けたい。
 ━━━彼女が、彼女であるうちに。
 だが彼はそのまま身を離した。
「・・・・・・しないの?すれば?キスなんて、挨拶よ」
 強がりなのは明白だった。確かに彼にとっては挨拶より軽い行為だ。だが彼女にとってはそうではないことは、あの雨の日に証明されていた。貞淑は彼にとって唾棄すべきものでしかない。
 彼は男性にしては線の細い、だがよく見ると鍛え抜かれた手で彼女の顎を挟む。
「僕は欲張りじゃないんだ」
「・・・・・・っどの口が」
 邪険に払い除けながら、口ではそう言うが明らかに安堵していた。彼女は軽く手を振って出ていく彼をみていたが、ややあってばつが悪そうに背中に言葉を投げ掛けてくる。
「・・・・・・次は食べてみなさいよね。こんな材料でもあたしのご飯、ほんとにおいしいんだから」
 そんなところが彼女の砂糖菓子より甘いところだ。大切な人を何人も危機に陥れた張本人にそんなことをいうなんて。
 彼女の料理を食べれば、誰でもあの凶暴な野良犬のように手なずけられるとでも思っているのだろうか。
 本当の悪意や憎悪と無縁なおめでたい環境にいた人間だということが丸わかりだ。おそらく彼女は食べ物に毒を仕込もうと思い付いたとしても、実行できない。
 彼は小さく肩をすくめていつものように、今度、といって扉を閉めた。

 ■
 今、彼女の手には暖かな料理ではなく、冷たく鈍く黒光りする鉄が握られている。力を込めすぎて、顔色はおろかせっかくのきれいな細い指先まで真っ白になっていた。先ほど彼に罵声を浴びせた形のいい唇は滑稽なほどに震え、はしばみ色の瞳は憎悪よりもはじめて人を傷つける恐怖に満ちている。
 また彼女の大事なものをあの男から奪う。なんという恍惚なのだろう。 
 ━━━愛してもいいから
 ━━━忘れるから
 そんなこと無理だと一番彼自身が知っている。それなら、愛の次に深いものをもらうだけだ。彼は欲張りではない。
 ほんの少し心残りがあるとしたら、彼女の名前を一度読んでみたかった。固有名詞としてでなく、呼称として。
 彼女の料理を食べて名前を呼んでみたら、どんな顔をしただろうか。彼女の溌剌とした笑い声を自分も聞くことができたのだろうか。
 ふとそんな愚かな考えがよぎって、自嘲気味に口を歪めた。
 そんな風景は、とうの昔あの夜母親と共に失われている。

 彼女は『ヨブ』
 理不尽に課せられた苦しみのなかでも自分の信念を貫くものの名前。そして最後には自分達を理解する。
 でき損ないの妹の作った組織がつけた『エンジェル』などという陳腐なコードネームより、よほど彼女に似合っている。
 その君と新しい世界で会えるのなら。
 ━━━君になら殺されてもよかったのに。残念だ。・・・・・・千鳥かなめさん

「君の負けだよ」

 そして、あっけないほど軽い銃声が響いた。