とまどいのイグナイト

 その連絡を相良宗介が受けたのは、千鳥かなめから罵詈雑言を浴びせられている最中だった。
「……了解した。こちらのことは問題ない」
 携帯電話を切ると、怒りに燃えた目が睨み付けている。
「なにが問題ないよ……大ありよ」
 そう、問題の真っ只中だった。
 A21が容赦なく散らかしていったかなめのマンションのリビングで宗介は正座させられていた。
「あたしが朝帰ってどれだけビックリしたと思ってんのよ!夕方まで待ってやったのをありがたく思いなさいよ!」
「……破壊活動があまりなかったのは幸いだったな」
「あいつがあたしのPHSで連絡したからでしょ!それがなかったらどんだけだったとおもってんの」
 昨夜は湾岸で一晩中大騒動して、寝る暇もなく学校に行ったのでふらふらのはずだったが、かなめは怒りで眠気が吹っ飛んでいるようだ。
「なんの電話よ、まさかこれ放置して仕事でトンズラするんじゃないでしょうね」
 本当にその連絡だったら、二度と彼女のもとに戻る勇気を出せなかったに違いない。
「いや……後始末の報告だ」
 それを聞いて怒り心頭でひきつっていたかなめの顔がいく分か和らぐ。
「テッサ達、大丈夫だったの?」
「うむ、大佐殿は速やかに基地に帰投された。少佐とヤン……後一人の兵士は都内の病院に収容されたそうだ」
 もちろん政府の息がかかった病院で、彼らの身元は完全に伏される。
「え……そうなの?カリーニンさん?」
「ああ、どちらにしろ後処理があるからな。傷が深いので、ついでに病院で治療を受けるのだろう」
 淡々と言うとかなめは眉をつり上げた。
「じゃあ、お見舞い行きなさいよ」
「……いや、それは俺の仕事ではない」
「仕事とかカンケーないでしょ?あたしも行こうかな」
 宗介はうろたえた。かなめはいつも突拍子もないことを言いだす。
「そういうのはいらない……と思うぞ。生存は確認している」
「何言ってんのよ!カリーニンさん、ほんとにひどい怪我だったのよ!」
 宗介は反論しようとしたが、何も言わずに口をつぐんだ。
 あの程度はいつものことだったし、事実、合流したときお互い無事を確め合いもしなかった。カリーニンのしぶとさは宗介が一番よく知っている。
 だが、それを彼女に言っても「やかましい!」と一蹴されるのが目に見えている。
「わかったわよ、明日あたしがお見舞いに行くわ」
「い、いや、それは」
「あ、た、し、が行くっつってんのよ」
「……要望は伝えておく……」
 有無を言わせない彼女に、宗介はそう答えるのがやっとだった。


「……なんだこれは」
「お見舞いの作法よ」
 次の日、放課後に駅で待ち合わせしたかなめは、大きなフルーツ盛りと花駕籠を抱えていた。
 宗介のわずかな期待とは裏腹に、見舞いの許可はあっさり降りた。テッサの謝罪代わりの心遣いなのだろう。
「そうなのか」
 名前はわからないが明るい色の花々と果物に囲まれているカリーニンを想像して、宗介は複雑な気分になるが、かなめは妙に上機嫌なので、わざわざ水を注すこともない。
 他愛もない雑談をしながら、電車を乗り継ぎ、大きな総合病院についた。話は通っているらしく、特別室らしき階に通される。
「相良宗介軍曹であります。入ります」
 宗介は後ろで手を組み直立不動で名乗ってから病室に入った。かなめは宗介に隠れるように後に続く。
「カナメ・チドリの付き添いで参りました」
 広くはない病室の奥にはベッドがあり、そこに大柄な人影が身を起こしている。がっしりとした体に包帯を巻き肩から野戦服をひっかけていた。スーツを着た日本人が脇に立っていたが、彼らをみると一礼して退出した。
「入りなさい」
 かなめは入るなり、ぴょこんと頭を下げた。
「先日はありがとうございました。お怪我は大丈夫ですか?」
「いや、君には迷惑をかけたね」
 カリーニンのいつもより柔いだ声が応える。
「いえ、そんな」
 かなめは一通り挨拶を終えるとそわそわと落ち着きがなくなり、
「あっ、あたし、飲み物買ってくるね」
 そう言ってお見舞いの品を宗介に渡して出ていった。
 彼女が来たいと強弁に押してきたのにいいのだろうか、宗介が後ろ姿を見送っていると、カリーニンが書類を脇のテーブルにおきながら語りかけてきた。
「学校はどうだ」
「はい、報告書でも申し上げていますが、任務に支障はありません。警備が甘いところがありますが、そこは自分が非致死性の……」
「そうではない」
 休めの体勢のまま言う宗介を遮って、カリーニンは苦笑を浮かべた。
「楽しいかと聞いているんだ、ソウスケ」
「……はっ?」
 およそ彼らしくない質問だった。耳を疑って宗介は黙りこんだ。正しい回答がわからなかったのだ。モゴモゴと口のなかで言葉を探す。
「……任務ですので、そのような」
「いい、忘れろ」
 カリーニンは軽く手を振った。下がってよいの意味だろう。
「よく休めよ、軍曹」
「はっ……」
 すでにいつもの上官で、先程のことは空耳かと思うほどだった。
 宗介は抱えたままのフルーツ盛を慌ててサイドテーブルにおいて、退出の敬礼をした。
 かなめが帰って来ていないことに気がついたのは、病室を出てからだった。


 カリーニンは窓から豆粒なような二人を眺めていた。
 背筋を伸ばして規則正しく歩く見慣れた影と、その横で弾むように歩く少女。
 宗介が初めて個人的な感情で任務の優先順位を無視した娘━━━千鳥かなめ。
 テロリストに銃をむけられてもその瞳は決して屈してはいなかった。
 いるだけで周囲を明るくする魅力と、利発そうな話し方、なにより周りに対する繊細な気遣いが、彼に死んだ妻を思い起こさせた。少し怒ったような話し方が懐かしかった。
 恐らく彼女も宗介の嘘に気がついてしまうのだろう。
 宗介は妻に会ったことがないのに、似たタイプに惹かれている事が不思議に思える。

 ━━━彼女なら。

 カリーニンは自嘲気味に灰色の髭に隠れた口を歪めた
 あの女テロリストとの事があってから、柄にもなく感傷的になっているようだ。
 それは諸刃の剣だ。
 もしそうなった場合、彼女を失った時、宗介は今度こそA21の若者達のように、虚無に支配され全てを憎み破壊を望むようになるだろう。
 まして彼女はウィスパードなのだ。彼らの恐るべき上官と同じ。彼女達は見た目も可愛らしく善良だ。だが、望むと望まざるに拘わらず、彼女らの知識は世界を歪め、常に混乱の中心にある。
 その渦中に宗介を置くことは、カリーニンの本意ではなかった。
 だが、未成熟な若い心は自分が思うより急速に育っているようだった。
 そうすれば、彼は元の世界に戻るどころか、むしろ当たり前の若者になってしまったことで、さらに千鳥かなめのために突き進んでしまうのではないか━━━━
 ほんの一瞬で心を奪われることがあることを忘れてしまっていたというのか。
 ぼくがまもるの、と大事なぬいぐるみを抱き締めていた小さな男の子。

 ━━━私はまた間違ったのかもしれん。

 カリーニンは二人がおいていった花に視線を移す。黄色いガーベラの花弁の横で白いかすみ草が微かにゆれていた。


 かなめはマンションに帰りつくと、買い物した袋をテーブルにおきながら笑いかけた。
「よかったね、カリーニンさん、元気そうで」
「うむ、少佐はミスリルにとって重要なポジションを担っているからな。大佐殿も心配されていた」
 お米研いどいて、と言われた宗介は大人しく上着を脱いで腕捲りをする。
 かなめはあんなわずかな面会で満足したのか心配だったが、どこからかひょっこり現れた帰り道も始終機嫌がよかったので問題ないのだろう。
「そうじゃなくて、ソースケが良かったね、っていってんの」
 仕方ないわね、とかなめの顔が呆れていた。
 かなめはカリーニンと同じことを言っている。
 ソウスケ、と呼ばれたのは久しぶりだった。カリーニンを見舞ったことで、確かに安堵している自分を自覚していた。しぶといから大丈夫だと放言しているのは、そう思いたいだけだと知っている。三年前、すべてを失った時の恐怖を思い出したくないから。
「あっ、ソースケ、腕怪我してたの?」
 かなめの驚いた声で宗介は我にかえった。
 むき出しになった腕に走る傷跡をみて彼女は目を丸くしている。
 先日、高校の運動場で吹っ飛ばされたときの傷だったが、大きなものではなく処置もすでに終わっていた。
「今日、病院でみてもらえばよかったのに」
「問題ない。大したことはない」
 すでにかなめは早く言いなさいよと、救急箱を持ってきた。
「怪我してるなら手伝いはいいわよ、そこ座って」
 消毒液を手に持ってスタンバイしている。しかし宗介は救急処置に関してはプロだった。
━━━この場合、消毒はしない方がいいのだが。
 だが、にこにこと微笑んでいるかなめを前にとても言えない。素直にダイニングテーブルの椅子に座ると、かなめはピンセットでぽんぽんと癒えかけの傷に消毒液をつけていく。
 患部がすーすーして、気分までスッキリしてきた。
 そのせいか、宗介は先日から言いあぐねていたことを口にした。
「……千鳥……すまなかった」
 かなめは包帯を取り出しながら顔もあげない。
━━━包帯もしない方がいいのだが。
 さらりとした細い指の感触が気持ちが良くて、やはり口を出さない。
「ん?部屋のこと?もういいわよ、片付け手伝ってもらったし」
「いや、人質交換のときのことだ」
「ああ、あのこと」
「民間人の君を先に解放してもらうべきだった」
 かなめは器用に包帯を巻いていく。
「正直いうとちょっとむかついたけど。そっちももういいわよ」
「だが、君を危険にさらしてしまった」

「だって、信頼してくれてたんでしょ」

「……」
 そうだったのだろうか。クルツは「好きな子を先にする」と言っていた。
 だが、自分は。
 テレサ・テスタロッサは尊敬すべき上官で、過去の作戦でも何度も命を救われ、今回の事件でも見事な采配だった。
 しかし、あの時一緒に戦えるのは千鳥かなめだと、自分のどこかが命じた。民間人の、しかも一介の女子高生を信頼するなど、以前の自分ではあり得ない。
 それが、クルツのいう直感なのだろうか。
「ほんとはさ、怖かったけど……ソースケがいつもこんなことしてるんだって、わかって……うまく言えないけど……うれしかったとは違うんだけど」
「そうか」
 常に物怖じしない彼女にも、うまく言えないことがあるのだと少し意外だった。
 船の中で駆け寄って抱きついてきた彼女の姿が浮かんだ。心配したんだよ、という声と抱き止めた肩が震えていた。
 耳元でくすぐる声をもっと聞いたいと思った。敵が来てもそのまま続けていてほしかった。今さらもう安全だから、あの続きをしてくれとも言えない。
「……君にはいつも迷惑をかける。感謝する」
 本当に言いたいことはこんな言葉ではない気がしたが、正解がわからない。昼間のカリーニンとの会話と同じだ。
「もう、いいって。不本意だけど大分ドンパチにもなれてきたわよ、はい終わり。ご飯作るから待ってなさい」
 かなめは軽やかにエプロンを首にかけて背中で紐を結んだ。そのいつもの風景を宗介は黙って見つめる。
 学校に行き、学び、友達と雑談をし、食事を作り、暖かい食卓を囲み、やわらかなベッドで休む。彼女の日常であり、宗介にとっては遠い国の出来事だ。いや、たった三か月前まではそうだった。
 彼の世界になかったふわふわと心地よさそうなものが、突然与えられて触れていいのかすらわからずに立ちすくんでいる。

 白く清潔な包帯に包まれた己の腕をみると、傷だらけだ。今さら一つ二つ増えたところでなんということもない。この傷も通常であればすぐに古傷に紛れてわからなくなるだろう。
 だが、初めて痕が残ればいいと思った。
 彼女が触れた痕跡をいつでも確認できるのなら、胸の奥にうずくこの奇妙な感覚を忘れないでいられるような気がした。