わずらいのcalling

 人生が変わるような修学旅行、そして退院から1ヶ月たった。あれから身の回りは劇的に騒がしくなった。もちろん、あの男のせいだ。
 季節は夏に変わろうとしていた。そろそろ夏服を出さなければならない。そんなことをのんびり考えながら、千鳥かなめはお昼に買ったパンの袋をあける。
「ねーカナちゃんそろそろ教えてくれてもいいんじゃない?」
 常磐恭子が机に頬杖をついて、邪気のない天使の微笑みを浮かべた。
 かなめは食べていたパンをぐっと喉に詰まらせた。見かけとは裏腹にこの親友の笑みは油断ならないことを知っている。
「なんのことよ」
「またまたぁ〜とぼけちゃって。あんなに怒ってた相良くんを名前に呼ぶようになった経緯だよ。カナちゃん、男子のこと名前で呼ぶなんてはじめてじゃない。なにがあったの?」
 トンボ眼鏡の奥の眼がにやにやと山形に細められている。
 あの壮絶な旅行以来、学級委員の千鳥かなめが転校生の相良宗介のことを名前で呼ぶようになったことは、クラスの周知のことだったが、同時に彼女が彼の毎日のようにしでかす物騒なことに怒鳴りながら鉄拳制裁を加えるのが日常茶飯事になっては、誰も不思議に思わなくなった。
 つまりは、飼い主と狂犬みたいなものだろうと納得したのだった。
 ちなみに今日の昼休みの平和は彼の不在によるものだ。
「なっなななにもないわよ!あんなやつ、“くん”なんてつけてやるのが馬鹿馬鹿しくなっただけよ。うははははは!」
 いつもの合図だが今回は恭子も逃がしてやらなかった。
「えーそのわりには仲良くなったようにしか見えないけどぉ」
 事実、あれ以来かなめは彼にたいして宿題を見てやったりお弁当を作ってやったり、さらには夕飯をご馳走してやったりと実に甲斐甲斐しいのだ。別に話したわけではないが、かなめの第一の理解者である恭子が気がつかないわけない。
「あの戦争ボケ、目を離すとすぐにはた迷惑なことしでかすじゃない。これ以上バカされたらこっちが困るのよ。生徒会副会長として仕方なくよ」
 ふぅーん、と恭子は猫のように笑ってお弁当の卵焼きを頬張る。全然納得してない。
 どうせ頭のなかで勝手に話を大きくしているに違いない。当人が仕事で学校を休んでいてよかった。
 確かに世話を焼かざるを得ないのは全うな理由がある。だが、恭子が思っているようなものではなくて実務的なものだ。彼が自分のために命を懸けていることをいやというほど知っているから。
 それに別に勝手に呼び捨てにしてる訳じゃない。かなめは残ったパンを乱暴に口に押し込んだ。



 その日の夜、相良宗介は汚れたオリーブ色の服でかなめのマンションを訪れた。それが野戦服という名前ということなど彼女が知るよしもない。ただ洗い甲斐がありそうだということだけだ。
 以前洗濯していたシャツとチノパンを渡して着替えてくるよう言い渡すと、宗介は目をぱちくりさせた。
 さすがにお風呂まで貸すのには抵抗がある。……まだ。
「それ、洗ったげるから持ってきなさいよ」
「君から帰ったら来るように留守電が入っていたと思うのだが、用はなんだ」
「確かにいったけどお風呂くらい入ってから来なさいよ」
「……急用かと」
 鍛え抜かれた兵士である彼の息は乱れていないが、おそらく携帯が繋がるやいなや超特急で来たに違いない。肩に担いだザイルを何に使ったのかは恐ろしくて聞けない。
「急用よ。明日までの古文の宿題がたっぷりでてんのよ。あたしは別にいいけど」
 途端に宗介は声にならない呻き声をあげて顔をひきつらせた。


「よし、宿題はこれで良さそうね。ご飯食べてくでしょ?」
 明るい表紙の古文のノートを軽くふってかなめは当然のようにきいた。
「うむ、頂く。いつも感謝する、千鳥」
 今まで魔女の呪文のごとき不可解な言葉にうなっていた宗介は、肩の荷が下りた事とご褒美に尾がふりきれんばかりだ。
 かなめも心得ていて、彼が宿題に悪戦苦闘している間にすでに用意していた。最近、多目に作りすぎてしまうのでおかずには事欠かない。
 宗介はかなめにだけわかる上機嫌で箸を動かしている。しばらくその様子を見ていたが、意を決して話しかけた。
「あのさ、ソースケ、あんたあの時……」
「なんだ」
「……あた、あたしのな、なま、……を、」
「?」
 あの時、異国の地で、ASの起動音や爆発音、とんでもない騒音に紛れていたが確かに呼ばれた、と思う。
━━━━かなめっ!
 白い巨人から確かにあいつの力強い声がして、驚いた直後、急激な浮遊感に気を失ったから一度しか聞いていないけれど。
 あたしのこと名前で呼んだよね?
 だから、あたしも……
 病院ではもう二度と会えないと思っていた。だからまた一緒に学校に行けるようになってうれしかった。
 学校だから名字なのかと思ったが、二人の時も呼び方も態度も以前と全く変わる様子がなくて正直肩透かしだった。
 ……おかしいな。絶体絶命のピンチにあたしたち少なからずアレな雰囲気になった気がしたんだけど。
 宗介は待てを言い渡された大型犬のように箸をとめて、かなめの言葉の続きを待っている。そこに下心の欠片も感じられなかった。
 ……あたしだけだった?
 外国育ちの宗介にとっては、何でもないことだったのかもしれない。
 ……勘違い、だった?
 羞恥心でみるみる血が昇り、口は空気をぱくぱくするだけで言葉にならない。
 きょとんとした宗介の顔を見ていると自分が滑稽でたまらなくなる。
「どうした、千鳥。顔が赤いし発汗してしている。循環器の異常かもしれん。病院にいったほうがいいぞ」
 至極真面目に言う宗介を、かなめは最大限の八つ当たりを込めて怒鳴った。
「もういいわよ!バカソースケ!!大嫌い!食べたらさっさと帰りなさいよ」
「……むう」
 むっつり顔に脂汗をうかべ、釈然としない顔で宗介は残りの味噌汁を黙ってすすった。



「なんだよ、暗い顔して。こっちまで辛気くさくなるぜ。また学校でヘマしたのか」
 つまらなそうにデスクワークに向かっていたクルツが、いつものように隣の宗介にちょっかいを出す。ただのサボりの口実だ。
 宗介たちの仕事は戦闘だけではない。今回もメリダ島で〈アーバレスト〉のテストを行っていた。
 週末に留守にするというと千鳥かなめは実にそっけなく「あんたがどこに行こうとあたしには関係ないわよ」と木で鼻をくくるように言い放ったものだ。
 その割には今着ている野戦服は清潔に洗われ綺麗に畳まれて返ってきた。
 好意的だったり素っ気なかったり、彼女の一貫しない態度はすでに宗介の許容範囲を越えている。
 なぜだろう。彼女の好意に触れると体の奥からじわりと温かいものが滲み出してくる感覚にとらわれ、「大嫌い」と言われると腹の奥がずんと重くなる。
 護衛対象から信頼を勝ち取れないことがこんなにしんどいとは思っても見なかった。

 昨日のことだ。昼休み2年4組の教室で宗介が味気ないレーションを食べていると、常磐恭子が話しかけてきた。先程までかなめと一緒だったが、学級委員長である彼女は担任に呼び出されたのだ。
「ねぇー相良くん、相良くんはカナちゃんのこと相変わらず名字で呼ぶんだね」
 恭子は好ましい人物である、と宗介は認識している。が、質問の意図が読めず困惑する。
「どういう意味だ。日本の学校では名字を呼び会うものだと聞いていたがおかしいのか」
「んーん、そうだけど。それは普通の関係の場合だよー」
「……なに」
「特に親しい場合はそうでもないよ」
 彼女は人畜無害だとおもっていたが、もしや自分達の関係に気がついたのだろうか。かなめを護衛していることは気がつかれてはならないというのに。
 宗介は慎重に咳払いをして答えた。
「……特に親しいわけではない。彼女とはまだ信頼関係を築けていないのが現状だ」
「えぇ?そうなのー?」
 間違いではない。頻繁に大嫌いと言われている自分が、日本で特別視されているファーストネームなど呼べばさらに不興を買うだろう。
 一ヶ月前、非常事態だったとはいえ、つい名前を叫んでしまったときは、落ち着いてから我に帰って冷や汗をかいたものだ。
「そうだ。ただのクラスメイトにすぎない」
 恭子が大きな目をさらに見開いたところで、ふと視線を移した。
「あ、カナちゃんおかえりぃー」
 視線を追って宗介も振り返るといつの間にか教室のドアにかなめが立っている。なぜか冷ややかなオーラをまとっているような気がする。
「……ただいま」
 かなめは大股で歩いてきて、宗介の眼前にある自分の席に荒々しく座った。椅子が悲鳴にも似た音をたてる。
「バカ言わないでよ、キョーコ。こいつとあたしはクラスメイト、いーやそれ以下の関係に決まってるでしょ」
「あはは、ごめん、相良くん……」
 ばつが悪そうに恭子は片手を立てて拝むような仕草をしながら、そそくさと自分の席に戻っていった。
 凍りついたような空間に取り残されて、居たたまれず宗介は重い口を開いた。
「……その、千鳥」
「なにかしら、相良くん」
「…………明日の土曜は仕事で留守にするのであまり遠くにはいくなよ」
「っはぁー?んなこと知ったこっちゃないでしょ、クラスメイトの相良くん!」
 と前述の台詞である。
 それからはもうとりつく島もなかった。


「日本という国は昔から現在に至るまで……理解に苦しむ」
 古文といいかなめたち女子学生といい、こちらに与えられる情報が圧倒的に少なすぎる。なのに当たり前のように解釈を求められても困る。
 戦争に負けたのもこのせいではないかと発想が飛躍したところで
「何いってんだお前、日本人の癖に」
 そういえばこの金髪の同僚は自分よりはるかに日本にも日本語にも明るかった。そう思い宗介はここ何日も悩んでいる事を聞いてみた。
「クルツ、なまとはなんだ」
「なま?」
「カナメが俺が彼女のなまをなんとかしたと怒っているのだが、さっぱりわからん」
 どうもあの日からかなめの機嫌が芳しくない気がする。わずかな手掛かりにすがるしかない。
 しかし、クルツはくるくる回していたペンを取り落とし、ゆるりと立ち上がった。
「……なんだと、ソースケ……てめぇ、いつの間にカナメと」
 クルツは目を血走らせて宗介を締め上げる。
「どこの生なんだよ!いや、なんの!」
「わからんからおまえに聞いたんだろうが」
「なにぃ?責任感強いだけがお前の取り柄かと思ってたのに見損なったぜ。いいからどうだったか吐け!」
「なにをいっとるのかわからん」
 ミスリルの誇るSRT二人が本気で取っ組み合いそうになったとき、クルツの金色の髪がぐいっと引っ張られた。恐る恐る二人が見上げると、切れ長の紫の瞳が冷ややかに見つめている。連日の書類作業ですこぶる機嫌が悪い。
「クルツ、下らないことしてないで報告書は」
「姐さん!このムッツリネクラ野郎、ついにカナメに手ぇ出しやがった」
「あんたと一緒にしない。んなわけないでしょ」
 メリッサ・マオ曹長はファイルでクルツの頭をはたいた。金髪碧眼の二枚目も形無しだ。
 ふて腐れたクルツは便所、と席をたって部屋を出ていった。呆れてため息をつきながら、マオは宗介をみやる。
「ソースケ、なんかトラブル?」
 宗介は意外に面倒見のよい上官に一筋の希望を求めた。
「……マオ、日本語でなまとはなんだ」
「ああ?ビールよビール。くぁ〜!生でキュッとやりたいわぁ。全くなんだってこんなとこでつまんない報告書いてんのかしら」
 聞いた自分がバカだった。
「……いや、問題ない……」
 言葉とは裏腹に、宗介は暗澹たる気持ちになって、がっくりと項垂れた。
 どうやら、知らない間にとんでもないことをしでかしたようだ。これでは当分の間、関係改善も望めそうにない。

 しかし、しばらくすると不思議なことに気がついた。
 東京へ戻るために基地を歩いていると、通りすぎる人々がやたらと肩をたたいてきたり、「おめでとう」だの「やったな」だのと声をかけてくる。なんのことだと問うと、皆一様に下品な笑みを浮かべて訳知り顔で頷いたり親指を立ててきたりするのだ。
 クルツが話を大きくして言いふらしたことは想像に難くないが、なぜ彼に罵倒されたことが、他人には賞賛されるのか。
 それよりも、帰ってからもかなめの機嫌が戻らず「相良くん」と呼ばれ続けたらどうすればいいのかと頭を抱えたところで、なぜ困るなどと思うのだろうと困惑し、コールサイン『ウルズ7』は延々と冷たい廊下の隅で一人煩悶するのだった。


 そして、かなめもまた懊悩していた。友達とぱーと遊べれば少しは気が晴れるのだが、生憎こういう時に限ってみんな予定があって、日曜だと言うのに一人で昨日から家で悶々としているのだ。
 ……言いすぎた。ただの一人相撲なのに完全に八つ当たりだった。宗介はなにも悪くないのに。これじゃあ、ただの勘違いの痛い女だ。
 かなめは自己嫌悪にソファに寝転び、頭にクッションをのせて足をバタバタさせながら転がる。昨日からすでに何度目かわからない。もう午後になるというのに、予定していた家事は放りっぱなしだ。
 本当は洗濯物と一緒に謝ろうと思ってたのに、タイミング悪くあんな話題を……
 かといって宗介が「うむ、のっぴきならないほど親密だ」と食事をご馳走していることや洗濯していることを恭子に話したらやっぱり怒るのだが。
「あたし、こんなにヤなやつだったかなぁ……」
 いくら「恋人にしたくないアイドルNo.1」だとしても、生徒会や学級委員をしているくらいだから、多少は人望はあるはずなのに。彼が現れてから自分がわからなくなってきた。
 宗介のしょぼんとした顔が浮かんだ。きっとどうしていいかわからず右往左往していることだろう。
 ……このまま愛想をつかせて帰った来なかったら。
 それに思い当たって、かなめはガバッと起き上がった。宗介は「俺は保険だ」と言っていた。保険ということは、別にいなくてもいいのではないか。
「……ありえる……」
 クッションを抱き締めて、棚に飾ってある写真立てに目をやる。かなめによく似た女性が優しく微笑んでいた。
 誰もがいつでも当たり前に明日もいるとは限らないことを知っていたはずなのに。ましてや、彼の本当の居場所はここではないのに。
 かなめは部屋着のポケットからPHSをとりだして見つめる。
 とりあえずメッセージをいれとこうか。どうせ留守電だろうし。
 このままいつまでも今さら「相良くん」なんて呼べないし。
 だって、あの修学旅行で彼は確かに何か変わった。だからもう「相良くん」ではないのだ。
 ええい、あたしはそんなうじうじするキャラじゃない!
 そう思っていても、小さな通話ボタンを押すだけに無駄に時間を要した。頭を一振りして、ようやく勇気を出して呼び出し音を鳴らすとすぐに繋り、心拍が跳ね上がる。
「……サガラだ」
 固い無機質な声が聞こえる。案の定、留守電だ。出られるとき彼は往々にして「千鳥か、どうした」と応じるのだ。やはり気まずかったのでほっとする。
「あ、あたしだけど、えーとこないだはごめん。ちょっと八つ当たりしちゃった、かも……。だから、えっと、帰ってきたら……ご飯作るからうち来なさいよ……ソースケ……」
 聞いてないと思うと気が軽くなって素直に喋りすぎた。赤面して切ろうとした時、
「……了解した」
「!」
 少しの沈黙のあと、反ってきたのは確かに宗介の声だった。いつもの様にぼそぼそとしていたが、わずかだがトーンが明るくなっているのがわかる。
 だが、かなめは冷静に分析するどころではない。耳の先まで熱くなって、ようやく応えた声は自分でも驚くほど上ずっていた。
「……る、留守電じゃなかったの……」
「うむ、幸い通話可能地域だったのでな」
 ずいぶん早いがもう帰ってきたのだろうか。
 その途端、マンションのチャイムが軽快な音をたてる。
「……まさか」
「到着したぞ」
 もう、いっつも唐突すぎなのよ、と口を尖らせつつも、かなめは熱い頬を手で挟んで冷やしながら、軽くなった足取りを隠しきれず玄関に向かった。