黄昏のイノセンス

「もうやめよう、自分の過去を詮索されるのは気分のいいものではない」

 満員電車のなかで、そう言うとかなめは驚いたように目を開いて彼を見つめた。
 宗介は目を合わせられない。

 林水の過去。人を死なせた。
 一方の言い分で事実かどうかもわからない。しかし、自分はそうではない。
 人殺しであることは純然たる事実だ。間接的でも事故でも過失でもなく、明確な殺意をもって。一人や二人ではない。もう数など覚えてもいないし、数えてもいない。今だって東京に彼女を残して、人を殺している。自分にできることはそれしかないから。
 北朝鮮の山の中での彼女の怯えた顔が浮かび、心臓がぎゅっと締め付けられる。
 またあの顔をされたら━━━
 宗介は足元が暗い穴に続いている気がした。

「…ごめんね」

 かなめは素直に謝って彼の肩に頭を寄せる。いつもぽんぽん言う彼女にしては、不思議となにも聞かなかった。宗介は人知れず目を閉じて歯噛みした。
 この華奢な肩を抱けたらどんなにいいだろう。
 自分のなかにこんなにもざわめく欲求があることに驚く。
 笑ってほしい。顔が見たい。声が聞きたい。会いたい。そばにいたい。
 ━━━この子と生きたい。
 生まれて初めて抱いた強い思い。

 だが、自分の手は血にまみれている。この平和な日本で明るく希望に溢れている彼女の未来に自分のでる幕はない。彼女が平穏な日常に取り戻したときに、その時そばにいることはできない。
 自分と彼女を隔てているのは、防弾でも強化服すらでもない、頼りないただの布ほんの数枚にすぎないが、永遠にそれを越えることはできないのだ。
 宗介は学生鞄をもつ手に力を込めた。

「君が悪いわけではない」

 精一杯の自制心で、宗介はやっと応えた。
 電車の扉があき、一気に人の波が押し出される。宗介はかなめを庇いながら駅に降りた。密着していた体が離れるて、妙に寒々しかった。いつもの電車、いつもの光景のはずなのに、何故か遠く感じる。
 かなめは先程の会話は忘れたかのように笑顔で振り返った。
「あー慣れないことすると疲れるわね。ご飯ご飯!なに食べたい?ソースケ」
「いや…俺は今日は」
 いつもなら二つ返事で受けるが、後ろめたさが糸を引いて断ろうとした。
「なに言ってんのよ。今日はお米買わないとなの。当てにしてるんだから困るわよ」
 彼女は口を尖らせて、宗介の学生服の袖を引いた。
「それに、お味噌も油も…えっとあとシャンプーとか」
 たくさんあるから、と最後は消え入りそうな声だった。だから、味噌とシャンプーはこの間買ったばかりだとは言えなかった。
「……了解した」
 宗介が応えると、かなめは笑みを浮かべた。その顔が安堵したように見えたのは、ただの勝手な願望かもしれない。
「じゃ早くいこ。お店しまっちゃう」
「ああ」
 なだらかな曲線を描く細い肩が、頭半分低い横に並ぶ。長い髪が風にゆれて微かな香りが鼻をくすぐった。そっと右上から彼女を伺うと、夕日に照らされた頬が赤く染まって、形のいい睫毛や産毛が光を弾いて綺麗だった。柔らかそうな唇が、夕飯のメニューについてしきりに動いている。
 いつから、横にならんで歩くようになったのだろう。ずっと後ろ姿を追っていたのに、横顔を見るのが当たり前になった。
 本来、彼女の横に並んで歩くのは自分ではない。こんな他愛ない会話をするのは自分ではない。
 忘れてはいけない。彼女のそばにいるのは任務だ。明日命令が解除されるかもしれない。次の仕事で命を落とすかもしれない。
 そうしたら他の誰かがこの場所を歩くのだろうか。

 日が落ちて、あたりが次第に暗くなってくる。二人ならんだ影が長く伸びていた。この頃のことを黄昏というのだと、初めて通った日本の学校で習った。
 誰そ彼━━━横にいる人物さえ誰だかわからなくなる時刻。
 まるで自分のようだ。この居場所も肩書きも制服も、ここにいる自分はなにもかもかりそめのものでしかない。闇と共に消えていく。

 別れは慣れている。それは常にそばにあった。マジードも老ヤコブもカリーニンも、大切な人は誰もが彼から去っていった。カリーニンと再会できたのは奇跡的なことで、二度と会えなくなる別れの方がはるかに身近だった。
 だから、きっと平気だ。いつものことだ。想像するだけで抉れるようなこの胸の痛みも、そのうち慣れる。
 いつもそうだったように。

 後悔したりしない。この力を忌避したりしない。彼女を守れるのはこの能力のお陰なのだから。
 それでも信じているといってくれた。
 必ず守る。なにがあっても。持てる全てを使って。そのために何人殺しても、どんなに血と泥にまみれても、彼女に軽蔑されても。
 このからだが動かなくなっても。
 願いは叶うことはなくても。
 二度と会えなくても。

 横で揺れる細い手。軽く指を伸ばせば触れそうだった。それを宗介は必死で頭から追い出し拳を握りこんだ。

 その感情の名前を、彼はまだ知らなかった。