夜の果て

 かなめは小さく叫んだ。いつもの悪夢。
 ━━━ソースケ
 かつて何度も何度も助けを求めた。だが、その声は体中を這い回る無数のムカデに掻き消されて届かなかった。
 ━━━あいつは死んだよ
 ━━━もう助けられない
 ━━━カナメさん、彼は…
 うそ、うそ、うそだうそだうそだ!いやだいやだいやだ!
 なにもない、暗闇のなかで絶望しかない。ソースケ。どんなに叫んでも、彼はいない。
 ふわりと無器用に、だがやさしく頭を包まれる。
「ここにいる」
 溺れるものがやみくもに何かにすがりつくように、かなめは必死でしがみついた。シャツを掴み、胸に頭を擦り付ける。
 感触を、臭いを、声を、息づかいを、心臓の音を、ありとあらゆるものを確認するように。ようやく彼だと確信してからやっと嗚咽がもれる。
「千鳥…大丈夫だ」
「…ふっ…うっ…っく…」
 最近は少しはましになってきたと思ったのに、気を抜くとすぐにあいつらは襲ってくる。まぶたの裏に焼き付くムカデの嗤い顔。
 声を押し殺して泣きじゃくっている間、宗介は何も聞かずに黙って頭を撫でてくれた。
 ━━━あたしはずるい。テッサもミラも辛いのはあたし以上なのに、彼を独占している。
 かなめは罪悪感に押し潰されながらも、指が白くなるほど握りしめていた。


 宗介は泣きつかれて眠りについたかなめを抱く腕に力を込める。
 当初、ベッドの上に寝る習慣のない彼だったが、度々うなされている様子を放ってはいられなかったし、いつもは強気の彼女が夜になると怯えた瞳でそっと裾を引くのを拒否できなかった。
 すべてはあの時、手を離してしまったから。
 あの男に勝てなかったから。
 ━━━レナード・テスタロッサ
 彼女が自分に背を向けたときの横顔を、いまでも鮮明に思い出すことができる。あれだけ怯えていた彼女があの男の元に行ったのは、怖いと泣いた張本人である宗介の命乞いの為だった。
 守る守ると豪語していながら、本当は守られていたのは自分だった。この折れそうなほどに頼りない肩で彼女に守られていた。多分、出会ったときからずっと━━━今でも。
 自分にはレモンやミスリルの仲間、アルがいた。かなめはたった一人で敵の真っ只中に軟禁されていたのだ。さらに精神の最奥まで侵食され、いくら気丈でも一介の女子高生にとって、それがとれほどの辛さだったか筆舌に尽くしがたい。

 軟禁中のかなめの様子をただ一人知っているレモンから、以前宗介は詳しく聞き出した。どんなに細かいことでも教えてほしいと。それがナミを愛していた彼にとってどれだけ無神経か分かっていたが、聞かずにはおられなかった。レモンは躊躇い、それでも再三の要求に抗えなくなって答えたのだ。
 体調が悪そうだったこと、待遇は劣悪ではないが決してよくなさそうだったこと。彼を助けるためにレナードと言い争っていたこと、頬を打たれていたこと、そして無理やりキスをされて泣いていたとこ。
 確かにヤムスク11で会ったとき、以前の印象との違和感を覚えていたが、レナードは少なくともかなめに対しては紳士的だろうと思っていた宗介は、衝撃を受けて立ち尽くした。
 もちろん、その後の彼女の活躍についても聞いたが、レモンの取り繕うようにいう大したものだね、という賛辞はほとんど耳に入らなかった。
 宗介は人工呼吸とキスが違うことをすでに知っている。かなめがそれを大事にしていることも。以前の自分なら命が無事ならたいしたことはない、と思ったかもしれない。だが、今はとてもそう思うことはできなかった。
 あの何物にも替えがたい甘美さと、震えるほどの幸福感を知ってしまった今では。自分を受け入れ肯定してくれると強く感じられる。それを無理強いされることは正反対の、尊厳への蹂躙だ。
 あの男はもういないとはいえ、その事を含め彼女の心から傷が消えることはない。

 朝になるとかなめは何もなかったかのように振る舞う。彼女はいつも本当に辛いことは話さない。
 そんな目に遇わせたのは自分の責任なのに、夜だけでも彼を頼りにしてくれることだけがわずかな救いだった。
 まだ乾いていない涙の跡にそっと唇を寄せる。髪に、額に、瞼に、触れられるところすべてに。
 彼女が眠っているのをいい事に、許可もなく己のなんと下種なことだろう。
 誰にも触れさせたくなかった。
 本当はこのまま強く強く抱き締めてしまいたい。決して離れないように。彼女の悪夢が自分に取りついてくれるように。
 そんな自分勝手な事を思ってしまうのは、結局あの男と同じではないのか。
 髪に頬を寄せて宗介は忸怩たる思いを噛み殺して目をつぶった。

「…ソースケ」
 幽かな声と共に身じろぎされて、あわてて腕を緩めた。
「すまん、苦しかったか?」
「んん…へーき…安心する…から」
 そういって頬をすりよせてくる。込み上げてくる愛しさを堪えきれない。
 自分にだけ彼女の全てが許されているという信じられないほどの悦びが体を満たしていく。
 望んだことなど一度もない力のせいで自ら死を選ぶ者もいたほどの試練を受け、それでも自分のもとへ帰ってきてくれた。
「寝てていいぞ」
「ん…ソースケ…」
 きゅっとシャツを握る手に力がこもった。
「…ここにいて」
「……ずっといる」
 大きな吐息と共に、かなめの細い右腕が首に回された。あどけない行為がいっそ蠱惑的にすら感じるが、すでに彼女は健やかな寝息をたてている。
 宗介は眠りを妨げないよう、そっと反対の手に自分の指を絡めた。

 もう負けない。誰であろうと。
━━━━二度とこの手を離さない。