day after day

 自分の名前を呼びながら泣き止まないかなめに宗介は何度も瞼や頬に口づけをする。涙は塩辛いはずなのに、限りなく甘く感じた。
「…許さないんだから…死んだって何度も聞かされたあたしがどんな…ぜったい…許さないんだから」
「ああ」
「あたしは…あんたなんか…いなくたって平気なんだから…」
「ああ」
 言葉を裏切るように、宗介の背中に回された手は固くシャツを握りしめている。
「ばか、大嫌い……」
「すまん」
「そうやって、すぐあやまればいいとおもってるとこ、嫌いよ……」
「すまん」
 宗介は長い髪に手を入れて、頭を抱え込んだ。この腕に抱き締めたくてたまらなかった。あの時、ついに触れることができなかった頬をなぜる。指先がちりちりする。
 離れているところがあるのが切なすぎて、荒く唇をふさぐ。かなめは文句をいいたりなかったのか、彼の胸を叩いて抗議した。構わずに深く深く何度も水蜜のような感触を味わった。
 足りない。まだ足りない。全てを自分のものにしたい。やっと手のなかにもぎ取られた果実を独占したい。
「……そ、すけ」
 いつの間にかかなめは宗介の膝の上に横抱きにされていた。かなめの腕が首に回されて、息も絶え絶えにうるんだ瞳で見上げている。髪が乱れ、頬が上気して、肩で息をしていた。
「あの、あのね…」
 宗介の勢いに戸惑ったのか、かなめは遠慮がちになる。
「なんだ」
「その、ちょっと…体勢ととのえたいかなって…」
「いやだ」
 断固とした口調にかなめは赤くなってうつむいた。今さら恥ずかしくなったようだ。彼女は意外と攻められると弱い。
「俺はもう君を離すことなど無理だ」
「……ご飯どうすんのよ」
「かまわん」
 耳まで染まったかなめは、わずかな抵抗を試みたが、腰と背中を兵士の力でホールドされていては腕ずくでは無理に決まっている。
「千鳥」
 見つめると、かなめは耐えられなくなったのか目を伏せた。濡れた睫毛がキラキラと光っている。こんな顔をされて、どうして手を緩めてやることができるだろうか。宗介は頬に手を添えて顔を優しく向けさせた。
「君が好きだ。離れたくない」
「あ、あたし……も、だけど、まっ」
 返事を待ちきれず、宗介は口づけを落とす。
 何度繰り返しても満足できない。心の奥が乾いて水を求めている。もっと、もっと。
 彼の腕は次を求めて動き出す。彼女を包む肌に優しそうな布地が邪魔でしかたがない。
「……っ」
 かなめが体を震わせる。なだめるように目を開けると、彼女も薄目をあけてなにかを訴えている。
「怖いか」
「……ソースケなら、ヘーキ」
  全身が歓喜に震える。この感情をどう表現したらいいのか。首筋に唇を這わすと、かなめはくすぐったそうに身じろぎした。こんな細い首に、世界中が欲する叡知がつまっている頭が支えられるのか不思議に思える。
 できるだけそっと上着のなかに手をはわす。昔、アフガニスタンで触ったことのある絹のような肌触りだった。
「ソースケ……」
「大丈夫か?」
「……ちょっとだけ、緊張するから…名前呼んでて……いい?」
「……かまわん、いくらでも呼べ」
 それは彼をさらに煽り立てるだけというのに。驚くほどの無防備さだ。彼女に会うまではただの記号だった名前が、呼ばれるほどに魂に染み込んでいく。
 壊さないよう、慎重に豊かな膨らみに手をおくと、体をすくませるのがわかった。想像以上の柔らかさに、これが同じ人間なのだろうかと思う。直線的で固く武骨な自分と同じ成分で構成されているとは信じられなかった。
 唇で触れると 、絹の肌が粟立った。空いた手で白磁のような脚をなぜる。奥に進むごと、さらさらだった肌がじわりと湿り気を帯びてきた。
「…そ、ソースケ……」
 かなめはもはや全身を赤く染め目を固く閉じ、右手を口元に当て必死で耐えている。
「部屋にいくか?」
 宗介にしがみついて、かなめは無言で頷いた。
 横抱きのまままかなめの部屋へ運ぶ。プライベートなその空間は、以前もほとんど立ち入ったことはない。
 昨日まで主人が留守にしていたとは思えないほど、きちんと整えられていて、彼女を待っていた人々の想いが忍ばれた。
 そっとベッドに横たえると、長い髪が広がりまるで花弁のようだ。中心は匂い立つほど上気している。
 美しい花を自分が汚していいのかと微かな罪悪感が疼くが、とても止まれそうになかった。
 気が急くの最大の自制心で押し殺して、彼女を隔てる壁を取り除いていく。かなめは恥ずかしがりながらも応える。いつもは吊り上がっていることの多い眉毛がさがってかすかに震えている。
「……千鳥」
 そっと耳元で囁くと花はたちまち咲き誇った。柳眉に口づけをすると、合わせたように瞼が閉じられる。
 宗介は屈みこんで唇に触れた。


 荒い息で自分の名をよびながら、己の思うままに翻弄されている彼女を心から愛しいと思う。
 宗介の腕の下でかなめの涙は一向に止まる気配がない。手の甲でぬぐってやりながら、無理がすぎたかと心配になって聞いた。
「辛いのか?」
 違うの、とかなめはかぶりをふった。長い髪が揺れて、汗にまみれた鎖骨や肩にへばりつく。
 噛み締めた唇から絞り出すような声が漏れた。
「……ずっと、会いたかった…」
 かなめは別れてから今まで一度も弱音をはいたことがなかった。ようやく漏らした本音に堪らなくなる。
 前に見たのは、自分が彼女の元を去ったときだ。
 あの時はわからなかったこの気持ちの名前が今ははっきりとわかる。
 会いたかった、会いたかったと子供のように泣きじゃくるので、宗介の胸はますます掻きむしりたいほど切なくなった。
 会いたかった。目を閉じると浮かぶのはいつも彼女だった。
 帰る場所も待つ人も持たない自分が、ずっとここに帰りたかった。
「俺もだ…」
 一年も離れていられたことが信じられなかった。彼女の声が、肌が、全身に染み渡っていく。絡み付く髪も腕も足も全て。もう誰にも渡すことはできない。
「君の顔が見たかった。君の声が聞きたかった。君の香りを感じたかった。君の隣を歩きたかった。君の料理が食べたかった。君に触れたかった。君を……抱きたかった」
 汗ばんだ細い体を強く抱き締めると、かなめも力が抜けた腕を回して宗介の頭を抱え込んだ。
「ソースケ……大好き」
 自分の貧困な語彙ではどんなに言葉を尽くしてもこの想いを伝えるとこができない。
 メキシコで同じ会話をしたときの距離を思い、今こうしていることが夢ではないかとさえ思う。
 あの時、かなめは力強い言葉で自分の罪を共有してくれた。
 罪にまみれたこの身が許される日がくるとは思っていない。彼女に背負わせようとも思わない。だが、あの時の雲が晴れて目の前が明るく照らされた感覚を今でも思い出せる。
「……かなめ」
 彼女は驚いたように目を見開いて顔をあげ、体をきゅっと震わせた。
「……かなめ…」
 今度は自分が一度呼んだら止まらなくなった。何度も掻き抱き深く繋がる。かなめも応えるように呼び返す。合間の甘い嬌声が次第に高くなっていく。
 もう、どこからが己なのかわからない。二人は時間の感覚がわからなくなるまで抱き合っていた。


「腹が減ったな」
 ポツリと呟くと、隣で横たわっている彼女は片眉をあげた。
「だからいったじゃない…ばか。勝手に自分で暖め直して食べてよ」
 声は強気だが、もう腕さえ上がらないらしい。
「了解した。君は?」
「……無理に決まってんでしょ……」
 顔にかかる髪も直す余裕がないようなので、そっと直してやった。
「待っていろ。持ってくる」
「食欲ないからいい」
「ダメだ。なにか食べろ」
「……誰のせいだとおもってんのよーもー……」
 お腹が変なのよとぼやかれて、宗介は慌てる。
「なんだと。内蔵疾患かもしれない。早く病院に行こう」
「行けるわけないでしょ!んなわけあるか!」
 ぼすんと枕が飛んでくる。さすがにいつもの切れはなかった。宗介はきょとんとして枕を抱えた。
「もーいいから、あんたご飯食べてきなさいよ。ずっと食べてなかったんでしょ」
「むう……」
「たくさん作ってるから大丈夫よ」
 重い瞼を必死であけている様子でかなめは言ったが、宗介はむっつりした。
「……君と食べたい」
「……勝手にしなさい…」
 ばーか、と口の形だけでいって、かなめは目を閉じた。
 宗介は恐る恐る頬をなでるが、もうぴくりともしない。微かに胸が上下していて、生きていると安心する。

 短くなった制服のズボンだけを履いてリビングにいくと、明るい光が差し込んできて目をすがめる。時間を見るととうに正午をすぎている。何時間抱き合っていたのか、と我ながら自嘲がもれた。
 ダイニングテーブルには朝の用意がそのまま残っていた。丁寧に作られたサンドイッチと冷めきったスープと生野菜たち。
 慎重に手を伸ばして、サンドイッチをつまんだ。ハムとレタス、黄色い卵が挟まっている。ゆっくりと口に含む。
 少し乾いているが柔らかい食感。ほんのりした甘さが口のなかに広がる。いつかここで食べた懐かしい味。
 彼女が去ったあの日から、もうなにかを美味しいと思うことなどないと思っていた。
 食事が燃料補給ではないこと。
 明日が今日と同じではないということ。
 生きているということが、死んでないということではないこと。
 全部君が教えてくれたことだから。

 これからも、生きていく。


 君と一緒に。