ある幽霊の追憶

「あーやっと来た。呼び出しには絶対応えてっていったのに。勝手に通じなくなってるんだもん」
「……それはもう無効のはずだ。私をはずしたのはお前だろう」
 私は憮然として、目の前の少女の前に座る。いや、昔から大人びてはいたが、もう少女とは言えない。印象的な長いまっすぐな髪と強い瞳は一年ぶりでも変わらない。
 違う、二年前だ。一年前、彼女は病院の一室でただ生気の抜けた顔でベッドに腰かけていた。以前の彼女を知っていればいるほど痛々しい姿だった。
「それとこれとは違うでしょ。あの約束は個人的なものだったじゃない」
 コーヒーに口をつけつつ、彼女はちらりと私を見て呆れたように眉をあげた。
「それに。まだそんなカッコしてるの?もう情報部とやらじゃないんでしょ」
 今の私はごく平均的なアジア人の若い女性にみえるはずだ。この街にどこにでもいる田舎から出てきた学生。
 学校帰りに喫茶店に寄り、友人とお茶をしてとるに足りない話をしている、というのが設定だ。
「今はハンターとレモンに……いや関係ない話だ」
「そうよ!ソースケからレモンさん経由でずっと連絡してたのに」
 しびれを切らした彼女、千鳥かなめが怒り狂って例のことを誰彼構わず言いふらすとレモンに伝言してきて、ようやく私は腰をあげた。
 彼女とはもう二度と会わないつもりだったというのに。
 今さら、ミスリル時代の失態を告げ口されても、特に困りはしないのだが、やはり私にも欲求があったのかもしれない。生気の塊だった彼女のあのままの姿が最後というのは心残りだった。
「とにかくまだ芸人目指してるつもり?着替えてきて。せめて顔だけでも」
 なんでこんなに命令口調が板についているんだ。そして従ってしまうんだ。ウルズ7といい、彼女は大した調教師である。
 私は黙って化粧室に向かう。

 メイクを落とし着替えまで済ませてむっつりと帰ってくると、彼女はいつの間に頼んだのか、のんきにパフェを食べていた。
 なんという無防備な娘だ。まだどこから狙われるかわからないというのに。
「ウルズ7はいないのか」
「ソースケ?あなたと会うのに心配なんかないでしょ」
 あきれた犬だ。やはりあの男は護衛のセンスゼロだ。
「よかった、やっとお礼が言える」
 そして屈託のない笑顔をうかべた。
「久しぶり、レイス。そしてありがと」
 彼女のミスリルでのコードネームは『天使』といった。東京でも香港でもどこが天使なんだとさんざん悪態をついたものだが、なるほどウルズ7が籠絡されるのも納得の眩しさだった。
「礼を言われる筋合いはない」
「ちゃんと聞いたよ。キョーコを助けてくれたのも、アルを……ソースケを助けてくれたのも。ミスリルもあんなんなった時で……ほんとに感謝してるの。あなたがいなかったらみんな助からなかった」
 私は言葉に詰まった。あの時、千鳥かなめの街が破壊された時、確かに何をバカなことをしているんだと自分で自分に呆れながら、なぜか体が動いてしまったのだ。
 みんな、のなかに千鳥かなめは自分をいれなかったのに気がついたが、私は何も言わなかった。
「……任務だ」
「でもレモンさんからひどい目にたくさんあったって」
 かなめの表情が曇った。
 全くあのおしゃべり男め。フランス男はこれだから信用ならない。
「この仕事では珍しいことではない。
 それに……言われていただけだ。やられっぱなしではつまらんと。できるところまで悪あがきしてみろと」
「へぇーなかなかいいこというわね、その人。
 ……そういえばソースケも昔似たようなこと言ってたわ。ミスリルの社訓かなんか?」
「……本当にわからないのか」
「え?あたしの知ってる人なの?テッサ?」
「それは秘密だ」
「……あんたたちって実はすっごく似てるわよね。」
 千鳥かなめはふてくされてアイスを頬張った。
「まさか、礼をいうために呼び出したのか?」
 ううん、とスプーンをくわえたまま彼女は首を振った。
「どうしても聞きたいことがあって」
「なんだ、私はもう特に大した情報は持っていないが」
 そんなことじゃないわよ、と苦笑する。

「本名教えて」

「断る」

 きっと私は今までにないほど動揺している。気がつかれないようにコーヒーを飲むふりをして顔を隠した。
「なんでよ。もう”幽霊”じゃないでしょ。呼び方困るじゃない」
「いや、断固断る。レイスでいい」
「年賀状届かなくて不便でしょ」
「そんなものやり取りするスパイがどこにいる」
 まずい、まずいぞ。千鳥かなめは一度言い出すときかないのだ。うつむいてなにやらぶつぶつと呟いている。
「……前チゲ鍋が好きっていってたから……韓国系かな……ヤン、パク、……キム」
「……!」
 この娘の頭脳をもってすれば、簡単にたどり着けそうで私は戦慄した。
「……あ、レモンさんに聞けばいいのかな?」
「やめろ!」
 思わず大きな声を出すと、千鳥かなめは意外そうに目を見開いた。
 にやりと意地悪そうに口を歪める。
「じゃあ今度から呼び出したらちゃんと来てよね。遅くなったけど、約束通りチゲ鍋用意しとくからさ」
「ぐぐぐ……」

 千鳥かなめが手をふりながら店を出ていくと、当然のように背の高い若者が待っていた。
 目が合うと小さく目礼を返すところは少し成長したようだ。
 彼らはごく自然な動作で手を繋いで歩いていく。ゆっくりとした穏やかな歩調で。


 私は知っている。
 『エンジェル』と呼ばれ『ヨブ』と呼ばれた少女の強さも弱さも。
 彼が仕事で側にいない時に見せるどことなく無理をした態度を。彼を怒鳴りつけながらも嬉しそうな足取りを。家で一人でいるとき、ふと覗かせる寂しそうな横顔を。二人で歩いているときの、弾けるような笑顔を。
 彼が去った後の絶望からの立ち上がりを。雨に濡れボロボロの布切れになったものだけをまとい涙をぬぐった強い瞳を。傷だらけで混乱の香港の瓦礫の上にたった姿を。
 彼の命を救うために敵の元に行った震える肩を。
 メリダ島から救出され目を覚ましたとき、誰かを探す眼差しを。


 私は知っている。
 かつて『ウルズ7』とよばれた少年の強さも弱さも。
 たった一人の民間の少女に振り回されて戸惑っていた日々を。
 任務をとかれた時のいつにない我を失った行動を。香港で彼女を失ったと思い、うちひしがれて立てなくなった姿を。
 彼の世界を敵に回しても彼女のそばにいることを選んだ決意を。はじめて手をつないだときの覚悟を。意識を失っている彼女の頬にさえ触れられなかった指先を。
 全てを失っても、立ち上がって一人学校に向かった後ろ姿を。
 どれだけ傷つこうとも、ただひたすらに彼女を追い求めた一年を。


 お互いも、他の誰も知らないことも、私は全て見てきたのだから。

 重なった二人の影が雑踏に紛れて見えなくなるまで、私は目をすがめて見つめていた。