On a Suspension bridge

「吊り橋効果って知ってる?」
 知らないだろうと思いながら千鳥かなめは隣の男に尋ねると、案の定「何だそれは」と返って来た。
 わずかなまどろみから覚めた彼女は気だるげに体を伸ばした。何でもない様子を装って言う。
「吊り橋に若い男女を立たせると、高い確率で恋に落ちるってやつ」
「意味がわからん」
 だよねーとぼやく。朴念仁の代名詞の彼だから、期待してなかった。
「えっと、吊り橋が揺れてドキドキするでしょ。それを相手が好きでドキドキするのを勘違いするわけ。つまり非日常な状況に置かれると、恋に落ちやすいってこと」
「ふむ…それがどうかしたのか?」
「だから、その…あたしたちもずいぶんいろいろありすぎだったよね。最初の北朝鮮から…吊り橋ばっかりっていうか…」
 彼━━相良宗介は首を捻った。
「そうか。俺はそうでもないが」
「ま、まぁ、あんた仕事が戦争だもんね」
「肯定だ。その理屈で言うと俺はマオを好きになってないとおかしい」
「あ、ああ…そ、そうなの…かな?」
「クルツとマオは恋仲になったが、二年以上たってからだ」
 そうじゃなくて、とかなめは言いくるめられたような気分になって頭をがしがしとかいた。長い豊かな黒髪が乱暴にゆれる。
 彼にとって非日常とは、普通の人にはなんでもない日々の生活や学校生活に他ならない。
 ━━━ソースケは刷り込みであたしが好きだと錯覚してるだけで、いつか気がつくときが来るのかもしれない、という小さな恐怖は何かの拍子に顔を覗かせる。
 だって、彼の周りには自分よりずっとかわいくて才能ある子がたくさんいるのだ。しかもどう見ても好かれているし。
 そんなことを思われているとは露とも知らない宗介は、うつ伏せになったまま、ちらりとかなめを見て目をそらし鼻をかいた。
 こういうときの彼は、大体的はずれな事を考えていることを彼女は知っている。
「なによ」
「いや、気にするな」
「するわよ」
「君は怒る」
「怒らないわよ」
 宗介は黙っていても同じ結果だと思ったのか、恐る恐る口を開いた。
「…今の話は君が北朝鮮の頃から俺に好意があったという主旨なのか?」
「━━━━ちょ、そ、なにいって…全然違うわよ!なに聞いてたのよ!ばか!ばか!」
 真っ赤になってかなめは手近にあった大きな枕を何度も宗介の頭に降り下ろす。
「…やはり怒ったではないか…」
 憮然とした顔で、しかしされるがままになっている。妙に固定されている視線にかなめははっと気がついて、あわててシーツであられもない胸元を隠した。
「うむ、おしかった」
 問答無用でポーカーフェイスの頭に踵落としをくらわせた。
「痛いぞ」
 かなめは後ろを向いてふて寝した。
「ばか!エッチ!変態!」
「むう…ではなんの話だったのだ」
「もう…なんでもないわよ!」
 あたしの事本当に好きなの?などと、口がさけても言えないかなめは情けなくなった。
 宗介は身を起こして、しばし黙考した様子だった。例の反省しているようにみえて内容があっているかわからないポーズだ。
「つまり…俺達の出会いは少々一般的ではないということか?」
 唐変木にしてはかなり頑張った方だ。
「う、少々じゃないと思うけど」
「普通はどうするんだ?」
 思いがけない素朴な質問に、かなめはうろたえた。友達の話や漫画や小説を必死に思い出す。
「だから…たとえばクラスメイトとかと席が近くなったりして、話してみたら楽しかったり…帰り道が同じで、とか」
「うむ、クリアしている」
「!」
 自信たっぷりの宗介にかなめは唖然とした。
「全然違うでしょ!そ、それに、デートしたり、ご飯一緒に食べたり…たまにはケンカしたりして…」
 言いながらだんだん声が小さくなる。
「クリアだな」
「絶対違う!」
 はずだが、否定もしきれない。かなめは頭を抱えた。
「なんか…あたしばかみたい」
「バカではないぞ」
 宗介が覗きこんでくる。頬が熱くなってかなめはシーツに潜り込んだ。
 わかっている。こんな格好で一緒にシーツにくるまっている状態で言うことではないと。
 そんな気持ちが胸を去来するのは、多分後ろ暗いことがあるからだ。彼を一度は置いていってしまった。それだけではない、望んだわけでは決してないが、他の男と━━━━
 彼のことは信じている。だが深く繋がれば繋がるほど失ったらと思うと心がすくむ。
 いっそ、泣きながら何もかもぶちまけてしまえるような性格だったらよかったのに。
 こんな時でさえ素直になれない。
 ━━━本当にかわいくない。
「その…千鳥」
 自己嫌悪にげっそりしていると、ためらいがちの小さな声が聞こえた。
「もし君が、俺の事で勘違いしているなら」
 かなめの鼓動が高鳴って、心臓がきゅっと締め付けられた。自分の事しか考えてなかったが、そう受け取られてもおかしくない。違う、と言いかけたが言葉がでない。
 宗介は優しくて誠実だから、かなめの気持ちを無下にできないに違いない。何を言うつもりだろう。
 なら…目を覚ましてくれ?とか…?無理しなくていい、とか?いっそ…別れよう…とか?
「そのまま、ずっと勘違いしていてくれないか?」
 かなめはシーツから鼻から上を出して、目をしばたかせた。見上げればいつものむっつり顔で、そっぽを向いていた。
「今さら違っていたと言われたら…俺はどうしていいかわからん。…また君を吊り橋の上に連れていくかもしれん」
 憮然とした宗介に、かなめは笑みがこぼれるのを堪えられなかった
「武器はいらないんじゃないの」
「だから、困る」
 宗介はますますへの字口になった。
「あれはあくまでも、君が傍にいればという条件付きだ」
「それってキョーハク?」
「む…そういうわけでは…いや、そう思ってもらって構わん」
 すねたような口調。彼は好き勝手しているように見えるが、実は他人に何かを要求すること━━━わがままを言うのはとても珍しい。表情はかわらないが、悄然としているのがわかった。
 かなめはシーツから半身を起こし、手を伸ばして、むき出しの腕に触れた。
「ごめん、ソースケ。そういう意味じゃなかったの」
 宗介はおずおずとかなめの手を握り返した。視線をはずしたまま、言葉を探している様子だった。
「俺にもわからん。君といると俺は不安定になる。今までの自分では考えられない言動をしてしまう。それが吊り橋と言われればそうなのかもしれない。……それでも君と一緒にいたい」
 彼はいつも自分に正直で逃げない。
 だからたまにはひねくれ者も正直になっていいのかもしれない。
「うん、あたしもそうだよ」
 指と指がからまる。灰色がかったまっすぐな瞳に自分が映っている。かなめは震える声で囁いた。
「ソースケ、あたし、ソースケに言えないこと、たくさんあるけどいいかな」
「問題ない。俺もある」
 妙に堂々とした態度がおかしかった。小さく笑うと、宗介の姿が滲んできた。
「お互い様なら……いいよね」
「君が君ならそれでいい」
 やさしく髪をすかれる。ひどく切なげな声が降ってきた。
「どこも……平気か?痛いところはないか?」
 自分がつけてしまった傷を悔やむような、いとおしむような表情だった。
「うん…問題ない、よ」
 少し無理して微笑むと、壊れ物を触れるようにそっと抱き締められた。小さな吐息が聞こえる。
「もぅ、心配性なんだから。ヘーキよ、みんなやってることなんだから」
「うむ…しかし…皆がしているなど信じられん。あんな……」
 この男は血など腐るほど見慣れているはずなのに、思い出しただけで青ざめていて今にも卒倒しそうだ。
「さ、最初だけって聞くから…大丈夫よ」
 口ごもりながらも、かなめは一生懸命なだめようとするが、なにか釈然としないものを感じる。
 あたしだって初めてなのに、何で男の方を慰めてるんだ…。そりゃ、泣きわめいて思わず蹴っ飛ばしたのは悪かったけど…
 しかし、ここで誤解を解いておかないと、すっかりしょげた宗介がこれからどんな極端に走るか予測できるというものだ。
 彼のかなめを守るという気持ちは、常に嘘偽りがないが、時として盛大に空回りするのだ。
 そんなことになったら困る。…とても困るような気がする。
「そうなのか」
「そうよ、そんなんいってたら子供なんか生めないじゃない」
 さらに安心させようとの台詞だったが、宗介はみるみる茹でダコのようになり、ぎこちなく視線を彼女の下の方に移動させた。かなめもつられて赤く染まる。
「た、例えばの話よ!なに想像してるのよ!できてるわけないでしょ!」
「そうなのか」
「当たり前じゃない!ばかっ!」
 もう一度まくらで頭をはたく。
「まったくすぐ暴走するんだから」
 先刻の彼ときたら、まるで爆弾の解体で最後のコードを切り間違ったかのように脂汗がびっしり浮かべ、アスピリンやらモルヒネを持ってきては、かなめに張り倒される有り様で、まったくエリート傭兵には見えない程の狼狽ぶりだった。
 甘い余韻のかけらもなさにほとほと呆れたが、その姿を思い返すとかなめの胸の奥から暖かいものが染みだしてくる。

「…愛している…千鳥」

 仕方ない。例え刷り込みだとしても、覚めない夢もあるだろう。どうせ離れられないのは自分の方なのだ。悔しいが観念してしまおう━━━
 かなめは心地よい重さに身を委ねた。

 窓からはようやく夜明の気配がしていた。