墓標

 相良宗介は写真のなかで微笑む女性をじっと見つめた。きれいな写真立ての横に小さな青い花が飾られている。
「母さんの写真がどうかした?」
 千鳥かなめの不思議そうな声が聞こえる。宗介が振り返ると、買い出ししたものを袋から出して、備え付けの簡易冷蔵庫に片付けているところだった。
「いや、いつも花を飾るものなのだなと思ってな」
「あーなかなかお墓参りいけないしね。せめてものお詫び?ごめんね〜、母さん」
 各地を移動している身である。墓参りなど滅多にいけない。
 だが、どこにいってもかなめは母親の写真を一番いい場所に飾る。今回も海の見える窓辺にそっとおかれていた。
「墓参りか…」
 宗介は想い憂うように窓の外に目をやった。そこには穏やかな水面があるばかりだ。彼のこんな様子を最近見ることがふえて、かなめは作業の手を止めて眉をひそめた。
 すこし迷う顔になってから、なにかを決心するように息を吸い込む。
「ねぇ、ソースケ」
「なんだ」
「その、すごくお節介ってわかってるんだけど…」
 いつになく歯切れの悪い彼女に怪訝な顔をしつつも黙って言葉を待つ。
 かなめは荷物をコンパクトにまとめてあるいつもの鞄から、ハンカチに包まれた四角いものを取り出した。
「これ…」
 宗介は黙って受け取る。手のひらにすっぽりと入るほどの大きさで軽い。板状の物のようだった。ハンカチを広げると、窓からの光にきらりと反射した。
「…これは…」
「前にクルツくんに頼んでたの。この間やっと見つかったって」
 それは集合写真をトリミングして引き延ばしフレームに納めたものだった。
 白い髭に長い白髪を一つに結んだ野戦服の男が、鋭い眼光でこちらをみている。
 思いもかけないものに宗介は絶句した。
「…少佐」
「あなたにとってお父さんでしょ。お骨もお墓もないし…せめて写真だけでも」
 かなめがおずおずと言う。しかし宗介は表情を固くして、彼女に押し戻した。
「こんなものは不要だ」
「ちょ、ちょっと、そういう言い方はないでしょ。そりゃなかなか割りきれないとは思うけど━━━」
「この男は自分の組織を売った裏切り者だ。君も知っているはずだ。冷酷にかつての仲間たちを攻撃した━━━そして君にあんな…!」
 言葉を遮り、強い口調でいい放つ。かなめは気圧されたようにフレームを胸に押し当てたが、そこでひく彼女ではない。
「そうだけど、でも聞いて!」
「これ以上の議論は無用だ。君の気持ちはわかったが、それは捨てておいてくれ」
 そして、我に返り小さくすまないと呟く。
「本当に━━いいんだ。君の母親とは違う」
 視線をそらして、宗介は周りを見てくると部屋を出ていった。


 アンドレイ・S・カリーニン
 ミスリルの上司になる前からの知己。幼い頃から共に戦ってきた。お互い無口なので知る者は少なかったが、ミスリルのなかで特に親しかった。事実、彼らの間にはミスリルを通さない秘話回線があった。
 ━━━男の顔になってきたな。
 どんなことがあっても誰が死んでも冷静沈着と言われていた彼だったが、ぽんと叩かれた肩や、ごくたまにかけられる短い言葉に確かな温かみを感じていた。
 誰よりも信頼していた。
 ━━━お前を返したかった。
 彼が裏切った理由が自分にあったなんて、死んでいった、いや多大な傷を負った仲間にも、なんと言ったらいいのだ。
 宗介は唇を噛み締める。この事を思う度、目の中が真っ赤になる。
 ━━━バカだ。あんたはバカだ。俺なんかのために。俺はそんなことちっとも望んでなかったのに。
 宗介は地面を何度も殴った。本当は壁を殴りたかったが、怪我をして帰るとかなめが心配するから。大地をえぐる音は、誰にも聞こえない慟哭だった。


「ソースケ、さっきは突然ごめんね」
 遠慮がちなかなめの声。こんなにしおらしい彼女は非常に珍しかった。
 離れている間に起こった事にはあえて触れないことが、二人の間の不文律になっていたからかもしれない。彼女はずけずけ物をいうが、相手のプライベートゾーンにはとてもデリケートなのだ。
「問題ない。俺も悪かった」
 気まずく終わった夕食の片付けを終えたかなめが、ベッドに腰かけて休んでいる宗介の横に座った。
「あのね、あたし、ソースケの名前好きよ」
「…そうか」
 唐突な言葉に宗介は虚をつかれた。かなめはなんと切り出すべきかを迷っているようだった。
「ソースケのほんとの名前を呼べるのがうれしいの」
「…どういう意味だ?」
「ソースケ、アフガニスタンにいたときはカシムって名前だったんでしょ?」
「ああ」
「…どうして相良宗介が本名ってしってるの?」
「…それは」
 何故だっただろう。その前、ソ連の暗殺部隊では番号で呼ばれていた。なにも疑問に思っていなかった。
「それは…少佐が…」
 そうだった。カリーニンとアフガニスタンで会ったときに、ほとんど忘れかけていたこの名前で呼んだ。君はサガラソウスケだと…言葉も忘れていた彼に日本語を教えてくれた。
 かなめはそっと宗介の膝に手を重ねた。
「アルおじさんを覚えている?」
「…否定だ。いや…」
 ━━ソウスケくん
 遠い遠い記憶。大きな手のひら。掴もうとすると逃げてしまいそうなほど、ほんのわずかな印象しかない。
 宗介は記憶をたどるように頭に手をあてた。
「アル…おじさん…」
 それは、唯一彼に戦いを教えなかった大人だった。
 かなめの声はどこまでも優しい。
「アルおじさん…カリーニンさんが覚えていてくれたから、ソースケは自分の名前を忘れなかったのよ」
「…名前、俺の」
「たしかに、彼には散々な目にあわされたけど、私はどうしても憎めないの。
 だって、あなたの事を思ってあんなことをしたんだもの。あたしも同じよ。一度はあなたを裏切った」
 かなめは苦しげに顔を伏せた。自分達しか知らない事を突かれ、宗介は瞠目する。
「千鳥━━━どうして…そんなことを知っているんだ」
「…オムニ・スフィアでカリーニンさんの記憶の断片を見てしまったの。違う未来でソフィアが知った話なのか、私が眠ってる間にソフィアが聞いた話なのかはわからないけど…」
 個人的な過去を期せずして知ってしまったかなめは、居心地が悪そうだった。
「そんな事理由にならない…死んでいったものたちはあいつを許さない。テッサやマオたちだって…。あんな身勝手な感情だけで」
 彼らはカリーニンが裏切った本当の理由を知らない。おそらくこれからも。憎悪だけが残るだろう。
 個人的な情で動くのは最も愚かだと、教えてくれたのは彼自身なのに。
 かなめは固く握られた宗介の手を両手で包んだ。
「いいじゃない、誰も許さなくても。ソースケが知っていれば。カリーニンさんは冷酷な人間なんかじゃなくて、一人の父親だったって」
「千鳥━━━━━」
「ソースケも前言ってたじゃない。誰にでも大切なものはあるって。あたしには今のあんただったっていうだけ。
 でもカリーニンさんはきっと、自分と出会うことのない平和な暮らしを取り戻してあげたくて。兵士ではないソースケをしってるのはあの人だけだったから
 ━━━そういうの、やっぱりお父さんっていうんだと思う…」
「そんな、こと━━━」
 カリーニンとすごした日々が走馬灯のように駆け巡る。それは常に戦いの最中だった。前を行く大きな背中に、何度安心感を覚えたことだろう。戦火の中で彼が見せてくれた手紙や写真…自分はまだ幼くてなぜそんな話をするのか理解できなかった。
 ━━━━イキナサイ
 最期にみた凪いだ海のような穏やかな顔が浮かぶ。
 ぐっ、と喉の奥から熱くて硬い固まりが込み上げてくる。
 突然柔らかいものが彼を包んだ。かなめが宗介の頭を抱き締めたのだ。
「もぅ…ごちゃごちゃ言ってるんじゃねーわよ!あたしがいいって言ってるんだからいいのよ」
 あまりに柔らかくて暖かくて、冷たく重い石が溶かされていく。体まで溶けていきそうで、宗介はかなめにしがみついた。
「━━━━っ……」
 いつの日か必ず彼の妻子の横に墓標を立ててやろう。彼が望んだ通り、二人の元に帰れるように。そして白い花を手向けよう。
 それができるのは自分しかいないのだから。
 その時には、最期の言葉の意味が少しはわかっているかもしれない…


 結局、宗介は写真を受け取ったが、飾らなかった。しかし時折そっと取り出して見ているのを、かなめは目撃した。
 仕方がない。急に理解するなど無理だろう。彼女は実体験として知っている。ただ、彼の心が少しずつ整理され、いつか穏やかになってくれればいい。
 かなめの手にはトリミングする前の集合写真がある。クルツはいつもの軽いノリで渡してくれたが、壊滅したミスリルから探しだすのはかなりの苦労があったことは想像に難くない。
 何かのパーティーだろうか、懐かしいミスリルの顔ぶれが思い思いのポーズで写っている。はにかんだような笑顔のテッサ、彼女の頬にキスしようとしているクルツ、それを阻止するマオ。他のメンバーもいかにも楽しそうだ。
 そんな中、端と端に離れてたつ宗介とカリーニンは騒ぎとは無縁のむっつり顔でカメラをにらんでいる。
 かなめは小さな笑みを浮かべる。
 カリーニンとは混乱のなかでしか話したことはない。いや、対峙したといったほうが正しい。歩き方や話し方が宗介に似ていて、つい彼を思いだし困った。
 思いがけず覗いてしまったカリーニンの過去━━━宗介すら知らない彼自身の過去。
 自分の選択と彼の選択とどっちが正しいのか、正しかったのか、永遠に答えはでない。かなめは消えない罪悪感を苦笑と共に頭を降って追い出した。

 もう少し彼が落ち着いたら渡してやろう。そっくりだね、といって。